2019年8月1日木曜日

ブログをはじめるにあたって

ブログをはじめるにあたって




2019年7月21日投票の参議院選挙の過程は筆者にとって、今までは考えることのなかった事柄について、これからは熟慮せねばならないと気付かされた。

端的に言って、それは「日本維新の会」の言論の杜撰さである。

政党や候補者が自らの主張を有権者に訴え、また他党派への批判を展開し、有権者からの支持を獲得すること。政治活動はその積み重ねであり、選挙はそれが最も激しく行われる局面であることに誰も異論はないだろう。

しかし、この主張し、批判する際にもルールがあるのではないか、「日本維新の会」はそのルールに抵触するような言論が多くないか、という問題意識を持つようになった。

近年の政治宣伝は、配布されるビラ・チラシ以外にも、ツイッターをはじめとするインターネット技術の活用も巧みになっている。その巧みさの中にもまた、これはルールに抵触するのではないか、という事例にも気づくに至った。

「日本維新の会」の言論の杜撰さ、とはもう少し踏み込んで述べれば虚実の判然としない物言いである。選挙という機会に様々な政治的言説がいくつもの党派から交わされることは、有権者にとっては自らの投票という形での意思表明の上で基本的には好ましいはずだ。しかし「日本維新の会」の言論のいくつかは、この意思表明の自由さを制約し妨げるはたらきをするものと筆者にはみなされた。

政治的な主張、または批判する対象についての正確さを欠いた表現、自らの政策を明確に述べない政治宣伝など、このブログは「日本維新の会」とその運動の参加者が発した宣伝物一つ一つについて、その正確さをまず吟味するものである。

この参議院選挙の過程で得た問題意識をもとに世の中の言論に触れると、実は「日本維新の会」の言論の手法に類似する手法の言論が散見することに気づいた。これらについても、手の届く範囲で論じてみることにする。

論じる上での立脚点は、筆者の有権者としての視点、言論を通じて主権者である有権者が政治をつくる、政治を動かす、そのために有権者が事象を正確に把握、理解する、そのための言論を求めるという点に尽きるよう、心がけたい。

また、そのような立脚点に立った議論のための道具として、ツイッターではなくブログをいまどき採用した。ツイッターは反射神経を酷使するが熟慮はもたらさない利用法が多いように、筆者には感じられる。もちろんツイッター利用者に言葉と思考の深遠な方々が数多くいらっしゃることに異論はない。しかし筆者の議論の仕方にはこのような形式の技術が最適とは思えなかった。文字数の制限がない分、表現を丁寧に論点を示せるものとしたい。

2019年8月1日